理想社会実現をめざした 聖徳太子 (574~622年)

 日本人にとってもっともなじみ深い人物の一人であり、日本の古代史上、大きな足跡を残した聖徳太子。旧一万円札といえば、この聖徳太子でした。

 用明天皇の第二皇子で、推古天皇の摂政を務め、広く大陸文化をとり入れ、善政をしこうと努めましたが、推古三〇年( 六二二年)、四十九歳で亡くなっています。母の穴穂部間人皇后が、廐戸の前で皇子を出生、「廐戸」の名もつけられています。後にキリストの生誕にも類似していると研究する学者もいます。

 太子は、たいへん聡明な人だとされ、生まれながらによくものをいい、成長してからも一度に十人の訴えを聞き、あやまることなく弁えていたと、今でもよく伝わっているところです。聡舵であり、訴訟裁定にすぐれた能力を持っていたので、文字どおり「豊聡耳」という名もついています。

 ただ太子の生きた時代は、氏族制社会のなかでの諸豪族の派閥的な抗争がはげしかったときです。当時官吏たちは責任ある職務の自覚に欠けるところがあり、太子は官吏の道徳的な反省と自覚をうながすため、「十七条憲法」を制定します。「一に曰はく、和(やわらか)なるをを以(もち)て貴しとし、忤(さか)ふることを無きを宗(むね)とせよ。」で始まる、この憲法は、日本最古の成文法とされています。とはいっても現代の憲法とは違い、国民全体に示そうとしたものではありません。国民の上に立つ国家官僚に対して官人の心がまえや政治のあり方、「だめな政治はしてはいけない」ことを示したものです。天皇家を中心とした国家秩序の柱を、太子はこの憲法で確立しようとしました。

 また、この憲法の製作と相前後して、憲法の制定された前年六〇三年には冠位十二階が制定されています。これにより家柄によって身分が決まる氏姓制度にかわり、個人の力量、才能によって地位を決めるようになり、後の官人の位階制度の始まりになりました。小野妹子はこれにより出世した代表的な人物です。

 太子の父、用明天皇は仏教に帰依を表明した最初の天皇で、おおむね現世利益を求めたものでした。太子の仏教受容は仏教を人間の個人、内面的、精神的なものとの関連で理解しようと努めました。

 国政の改革と文化の興隆をはかった太子が、小野妹子をはじめとする遣惰使の国交を行ったのは特筆されます。従来の朝貢外交とは違い、対等外交を樹立しようとしたものでした。太子の新政が行われた前後一世紀を飛鳥時代といい、仏教は朝廷により厚く保護され進展し、「飛鳥文化」として隆盛します。

 千数百年にわたって、信仰を集めてきた太子は、現代でも多くの日本人の心のよりどころになっています。当時の先進的な学問であった仏教に深い理解を示した太子。儒教や法家などの思想をまじえて、理想社会実現を高くかかげ、中央集権体制確立をはかろうとした人物だったのです。

【聖徳太子 しようとくたいし】 敏達三~推古三〇年 五七四~六二二年用明二年( 五八七年)、蘇我馬子( ?~六二六年) が諸皇子と群臣にすすめ、物部守屋を滅ぼそうとしたとき、討伐に参加し、自ら四天王像をつくった。もし戦勝すれば寺塔を建てることを誓い、戦後、四天王寺を建立した。推古元年(五九三年) には皇太子となり、女帝縫古天皇を補佐する摂政となった。多くの事業を行ったが、蘇我馬子との共同も多く、馬子の功績といわれるものも多いとされている。唐の高僧の生まれかわりといった伝説化や太子の伝紀は早くから神秘化されてきた。なお文中「一に曰はく」の読み下しは新川登亀男氏による。

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