岩佐 豊

無我夢中の方が楽です

終わった話だから

 売上高500億円の会社を作った経営者の方にインタビューをしました。私がその方の言葉に単純に感心し、「どうすれば、そんなふうに成功できるのですか」と質問しました。

 いただいた答えは、予想外でした。成功のコツの一端でも教えていただけると思って質問してみましたが、答えはこうでした。「こんなふうに説明できるのも、皆終わった話だから。当時は、こんなふうに説明できるような余裕はありませんでした。ただ、一生懸命、無我夢中でした」

 考えてみると、私の新入社員時代も、今だから解説できるのかもしれません。当時は、理屈や仕事のセオリーなどを考えている余裕などありませんでした。無我夢中で、目の前の仕事を1つ1つ片付けていた、あっという間の10年でした。

ダイヤモンド社に入社して

 ダイヤモンド社への入社は、出版社なら人に命令されることの少ない仕事があるのでは、と思った結果です。近所に、ダイヤモンド社に勤めていた方がいましたので「出版社はどこが良いですか」と伺いました。すると、当然です。「ダイヤモンド社は、良い会社だよ」と言われ、そのまま受験しました。

 当時の研修は、わずか2日間。2日目の夕方、「希望を提出せよ」と言われたので「書籍の編集部」と書きました。翌朝、出社すると、「岩佐君は週刊ダイヤモンド編集部」と辞令が掲示されていました。小学校以来、作文は苦手でしたが、結果として、週刊ダイヤモンドの記者となってしまいました。

無我夢中で取り組む

 入社して2年目。週刊誌の見開き2ページのコラム記事集めを担当するようにと編集長から言われました。記者が小耳にはさんだチョット面白い話を50から60行で、6から7本掲載する一種の息抜きページです。私は「言われたら、ブツブツ言わずに、ハイと言う」性格。もちろん「ハイ」と言って引き受けました。

 当時も今も引き受けたことを後悔はしませんが、結構大変でした。忙しい先輩記者たちは、新入社員に近い2年目の私には、何の遠慮もなく「忙しいから次ね」と言えます。

 入社数年後なら、足りない2本や3本を、最後は自分で書くこともできますが、2年目では短い記事も、簡単には書けません。締め切り時間なのに、部屋に誰もいない。そんな毎週でした。

 それでも、入社3年や5年は、「言われたら、ニコッと笑ってハイと言う」を勧めています。仕事を覚えるときは「好きだ、嫌だ、やりたい、やりたくない」はご法度。自分では思いつかないようなことに毎日挑戦する。覚えるときのセオリーです。

 仕事は楽しいですか。私は楽しいと思ったことはありません。100パーセント以上の結果を出さねばなりません。無我夢中で取り組むのが、結果的に一番ストレスが少ないのも事実です。

 ――次号へ続く。

相田さんとの出会い

ずうずうしい私

 週刊ダイヤモンドの副編集長時代、経営者の間で、書家の相田みつをさんの講演が話題になっていると聞きました。そこで「週刊ダイヤモンドに連載をお願いしよう」となりました。相田さんは昭和60年ご
ろは、一部で名が広がり始めた時期でした。

 私は当時から世間知らずの、ずうずうしい性格で、いきなり相田さん宅に「連載をお願いしたい」と電話を入れました。答えは当然「否」でした。しかし、「一度お会いしていただけませんか。お会いして断られたら諦めますから」と、とにかくお会いする約束だけはとりつけました。

 そして、栃木県足利市の相田さん宅を訪ねると、開口一番「連載をやってみましょう」とのお返事。相田さんも電話の後、「ダイヤモンド社という会社はどういう会社?」と何人かに、お聞きになったようです。幸運にも、ほとんどの方が「信用のある出版社だし、真面目な雑誌だよ」と言っていただけたようでした。

実は苦手

 編集者としての仕事は、毎月、相田さん宅へ、4回分の原稿を取りに伺うことでした。受け渡しは10分くらい。もちろん、「それでは辞去します」というわけにはいきません。相田さんと1、2時間は、世間話をします。私は経済記者ですから、取材するのは常に企業の経営者たちです。相田さんのような方に、いったい何をお話しすればいいのか見当もつかず、汗だくの2時間です。

 結果的に、この時間に相田さんとしたお話が、私の財産になりました。相田さんは私のくだらない質問に、いつも丁寧に答えてくださいました。まさに役得でした。

相田さんから教えられたこと

 相田さんには、本当にいろいろなことを教えていただきました。たとえば、「書を1晩に100枚、200枚書くのは、筆を持つ指先から、上手に書きたいという邪心が消える瞬間を求めて」。これは、仕事は他人の評価を期待して取り組んではいけない、ということだと思いました。

 「人と比べて、一瞬の優越感で心を安定させても、心の不安は消えません。人と比べない、絶対の自分は何か?ということを大事にしなさい」。人と比べるような安っぽい優越感は不安定で、本当の心の安
らぎは得られないということでしょう。

 「自分に後ろめたさがあると、他の人の悪口を言って、自分はそれほど悪くないと一瞬の安心を得たくなる。それが陰口ですよ。いくら陰口を言っても、自分の後ろめたさは解決しない」。この言葉を聞いてから、できるだけ陰口は言わないようにしています。

 そして、何よりも「あらゆることはおかげさん。見えないところで人に助けられて、仕事は出来上がるのです」。まさに、1人では何もできません。「おかげさん」です。

 ――次号へ続く。

指揮官はブレない

編集長の初仕事

 週刊ダイヤモンドの副編集長を4年務めた後、専門職を1年、PR誌などの受託の仕事をする部門の責任者を4年。その後、週刊ダイヤモンドの編集長を命じられました。

 編集長の使命は、週刊ダイヤモンドのモデルチェンジでした。昭和45年に10万部を目指して1度モデルチェンジしましたが、20年経ても8万部前後。後発の日経ビジネスは、30万部です。

 編集長に就任して1年後の4月に、翌年の4月1週号でモデルチェンジすることが決まりました。

 モデルチェンジという言葉は「部数が減っていく雑誌が、生き残りを懸けて苦し紛れに行うもの」というイメージを持っていた私は、「1年後、部数が伸びている状況で、モデルチェンジをする」と編集部内外に宣言しました。そこでまず、言葉です。皆で考えた言葉が「パワーアップチェンジ」。以後、モデルチェンジという言葉は使いませんでした。

言葉の力で

 言葉だけでは意味がない、とよく言われますが、そうではありません。目標を示すわかりやすい言葉を使っているうちに、実態も言葉に追いついてきます。言葉によって、意識は変わっていくのが正しいと思います。

 1年後、部数は上向きで推移。そこへパワーアップチェンジです。部数は1・5倍の12万部となりました。ですが当時、高校時代の同級生が編集長を務めていた、マガジンハウス社の『ターザン』は、一足早くモデルチェンジし、部数を3倍に伸ばしました。

 パワーアップチェンジをした後日、「こんなに変えられてはもう読者をやめる」という抗議の手紙が100通ほど。『ターザン』の場合は、抗議の手紙は400から500通だったそうです。後悔はしていませんが、変える場合は反対論者が多いほど、大化けする可能性があるという事実を、身をもって知りました。

指揮官として

 1年後の部数を伸ばすため、チェンジの前の1年間は、過去にやったことのない特集しかしませんでした。

 副編集長7人との編集会議は、毎週水曜日の夜7時から。良い企画が出ないと、会議は午前1時、2時になっても終わりません。

 雑誌は、具体的に想定読者を1人決めます。その1人の読者向けに、魅力的な企画を届け続けるのが生命線です。5、6時間会議をしても、良い案が出ないとき、悪意はありませんが、副編集長たちは「想定読者の隣の人向けの特集をやりませんか」と考えます。それでも指揮官は、皆に嫌われようが「一度決めた原理原則は、どんな苦しいときでも外さない」と言い張るしかありません。

 その都度、個別の議論をすると「現実として、これだけは例外として認める」となります。原理原則は、議論抜きに守る。指揮官の最大の仕事といってもいいかもしれません。

 ――次号へ続く。

肩書は「役割」

社長は後方支援部隊長

 48歳で社長に就任しました。出版社は、年齢を気にしない社風です。営業系とは違い、編集系はフラット思考。私も、編集長や社長になりたいとは思っていませんでした。

 第一線の記者、編集者の仕事の面白さを知ってしまうと、管理職など、とてもなりたいとは思いません。しかし、誰かがやらなくてはならない。そう思って引き受けました。

 週刊ダイヤモンドの場合、どの記事を載せるかは、100パーセント編集長が決めます。副編集長たちの事情を無視しても、「そういう記事がほしい」と指示をするのが仕事です。社長は当然、全社のことを考えます。週刊ダイヤモンドのことだけを24時間考えるわけにはいきません。

 ですから、社長としての第一歩は、第一線で働く社員への後方支援部隊長である、と認識することでした。

社長が率先して

 編集長、社長と、その地位に就くたびに「何をしなければならないのか」と考えていました。つまり、「肩書は『役割』。何をしたいかではなくて、何をすべきかを考えなくてはならない」ということです。

 マネジメントすべき対象が大きくなるほど、「何をしなければならないのか」だけを考えなければなりません。常に楽をしたいと考える私みたいな人間にとっての単純な縛り(ルール)は「やらなければいけないことの中で、一番やりたくないことに即刻手をつける」でした。

 社長になると、社内では誰も注意をしてくれなくなります。役割の仕事は、自分で縛るしかありません。「一番やりたくないことから手をつける」のはとても大事です。というのも、社長の行動は、本当に細かいところまで、全社員に見られています。全社員が「一番やりたくないことから手をつける」ようになれば、当然、強い会社になれると思いました。「自分はやらないけど、皆さんつらいほうを選択するように」と言っても、誰もやってくれません。

「おかげさん」

 「肩書きは『役割』」という言葉には、さまざまな要素があります。1つは決定権の範囲が広がるほど、部分最適ではなく全体最適を考えなければならないということです。

 もう1つ、高い地位につくほど、その行動を注意深く見つめる目が増えることです。目が増えるほど、一瞬の手抜きを見抜かれる可能性が高くなります。社長が最もつらい仕事ということになります。

 「社員から頼まれたとき、面倒だと思ったらハイと言う」「私利私欲は見せない」「良いことは社長は最後」「会社や仕事には、好き嫌いは持ち込まない」。これらは縛りの一部です。

 社長は「役割」。辞めた後は、「OBは会社へ行くものではない」という私のルールで、会社へは行きません。「来るのは構わないが、俺は行かないよ」と、今でも守っています。

 結果として、累損を一掃し、復配もしました。まさに「たまたま」。「おかげさん」です。

 ――終わり。

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