村松 友視

テレビ創世記のAD時代

苦肉の策でテレビ局へ

 大学生活を、勉強もせず、ガールフレンドとのデートにいそしむでもなく、クラブ活動をするでもなく、だらだらと無為に過ごした私にとって、就職の壁は厳しかった。そこでNET(現・テレビ朝日)で、アルバイトをすることにした。

 そのころはテレビの創世記みたいな時代であり、テレビ局としての組織が完成していなかった。アルバイトを続けていると、やがて契約者となり、その先に社員という待遇があったのも、そんな時代の習慣のようなものだった。そこで私は、「アルバイト→契約者→社員」という道筋を、勉強しなかった学生の苦肉の策として選んだ。

ドタバタに終始するAD

 アルバイトの内容は、演出部のAD(アシスタント・ディレクター)であり、メロドラマ「この地果つるまで」(作・大林清)の担当だった。この日曜午後8時から始まる45分のドラマが、スタジオにおける生放送であったことから、当時のテレビドラマのレベルが、推し量かられるというものだ。翌日の昼の再放送のときだけがビデオ放送で、本番の生撮りの際の、てんやわんやのありさまは、現在のテレビマンなどには、想像もつかないであろう、うそみたいな世界だった。

 主演女優が作者の好みでないというので、連続ドラマの女性主人公が、ある回から、いきなり別の女優に替わってしまったこともあった。

 私の役であるADの仕事は、インカム(ヘッドホンと小型マイク)を付け、ストップウォッチとカット割りを記した台本を持ち、せりふを忘れた役者に映らないところから教えたり、何秒オーバーで進行中かをサブスタジオのディレクターに伝えたり、時間が余ったときのためのテーマ曲の歌詞が3番まで書かれたフリップを準備したり、3台のカメラのケーブルのからみをほどいたり、ドラマの出来栄えとは、全く別のドタバタに終始したものだった。

演出を夢想していたが

 それでも、社員の中に面白い人がいたり、出演する役者の家に原稿を届けて、お茶をごちそうになったりするアルバイト時代を、私はそれなりに楽しんで、やがて自分が演出するドラマを夢想していた。そして、テレビ・ディレクターへの道筋が、やがて実線となる手応えが、次第に強まっていった。ところが、私が大学を卒業した昭和38年(1963年)度から、局の機構がようやく整い、「アルバイト→契約者→社員」という習慣が、そこで消滅したのだった。

 つまりはテレビ局の夜明けなのだが、私の前途もそこで消滅した。局の正規の試験は受けたが、もちろん不合格。心が真っ暗闇となった私が、そのあと中央公論社(現・中央公論新社)という、お堅い会社へ入るいきさつについては、次号で。

偏屈な姿勢の編集者時代

祖父のつてで、中央公論社に入社

 NET(現・テレビ朝日)就職作戦に失敗した私は、文化放送、東京放送、集英社、小学館、さらに大映広告部からコロンビア広告部、果ては日劇ミュージックホールの演出部を訪れるなどの、就活にいそしんだ。

 しかし、もちろんみんな駄目。これ全ては、大学時代を無為に過ごしたつけというものでありました。そんな中で、集英社の面接試験で私を落とした本郷さんという重役が、文士であった祖父と何らかの縁があった人で、落とした後ろめたさも絡んで、中央公論社(現・中央公論新社)の嶋中鵬二社長(当時)に推薦文を書いてくださった。その後のことを思えば、本郷さんは私にとって、大恩人ということになる。

 このようにして、私は入社したのだが、合格という実感はもちろんなく、これはまさに縁故入社だったと断言できる。祖父はたまたま会社と深い縁のあった文士で、私がその孫であるということで、社長が無理をしてくれたに違いなかった。

インテリの場に、すぐになじんで

 カジュアルなテレビ局に比べると、会社の雰囲気は、やはり大人びていた。私は編集局配属だったが、出版局などは、まさに職員室といった雰囲気に包まれていたものだ。それでもインテリの場の空気に、すんなりとなじんでいった。それは、実の父を生まれる前に失い、他家へと嫁いだ実母とは縁なく育ったあげく、大学生活の後半で、育ての親たる祖父母が相次いで他界するという現実の中で、私に宿った妙な知恵というものであったのだろう。

 まず、配属されたのは『小説中央公論』、同時期に創刊された講談社の『小説現代』と同じ、読物雑誌とも中間小説雑誌とも呼ばれるジャンルの雑誌だった。

 この『小説中央公論』には、野坂昭如さんが「エロ事師たち」でデビューするという大手柄があったが、私のこの段階での仕事のレベルは、子どもの遣いにすぎなかった。この雑誌が、半年ばかりで休刊(ということは、出版業界では、廃刊を意味する)となり、『婦人公論』編集部への転部となった。

不良編集者、伊丹十三さんを起用

 『婦人公論』では多彩な仕事に巡り合ったが、そのころ、ようやく私なりの偏屈な編集姿勢が頭をもたげてきて、雑誌の中心となる作家ではない書き手に、目配りをし始めた。

 その第1号が伊丹十三さん(当時はまだ一三、十でなく一の伊丹さん)で、昼間から伊丹邸を訪れ、会社の仕事よりも、その昼酒の方が楽しくなる始末。ようやく伊丹さんと仕事をしたのが一年半後。のちに『問いつめられたパパとママの本』という単行本になった連載だった。

 会社員として、まことに不良、編集部の戦力には、程遠い存在というわけでありました。

──次号に続く。

贅沢過ぎた不良編集者時代

『婦人公論』から『海へ』

 「婦人公論」時代は、中公新書の編集センスで突出した力を社の内外に示していた、宮脇編集長のもとで仕事をした。

 宮脇編集長とは鉄道物のマニアックぶりで知られ、のちに作家となった、あの宮脇俊三さんである。編集部には宮脇さんのほかにも、のちに作家となった春名徹さん、梅原綾子さん、水口義朗さんなどがいて人材が充実していた。しかし、そんな時間の中でも、私は何となく仕事に爪がかからずにいた。そのころ、編集局長になった宮脇さんから「新しい文芸誌を出すのだが、そこへ行かないか」と打診された。まだ雑誌の名もなく、編集長と次長だけがいる新雑誌編集部だった。

 その編集長とは、反りが合うまいと思ったが、いろいろと考えたあげく、宮脇さんの意見に従った。そ
の雑誌は、文芸誌『海』としてスタートしたが、思った通り編集長とは、やはり反りが合わなかった。

唐、野坂、伊丹、猿之助

 そのころは「過激な季節」の真っただ中であった。文壇らしい雑誌を志向する編集長に協力する気分になれず、唐十郎さんや野坂昭如さんなどに、ひたすら惹かれつつ、伊丹十三さん(まだ一三さんだったか)との仕事抜きのつき合いを、相変わらず続けていた。

 また、街のレストランで出会った市川猿之助さんと意気投合し、「おもだかニュース」という、猿之助さんのファンクラブの会員向け新聞(4ページ)の編集をやってくれないかと頼まれて、以来10年間ほど1人でこの新聞の編集をすることになった。

 猿之助さんは八面六臂の活躍をしていた。私は猿之助さんの舞台を、毎月といっても大げさでないくらい、東京だろうが、名古屋だろうが、京都だろうが、大阪だろうが、欠かさず観に行った。猿之助さんとは、少なくとも月に3度は会って、いろいろとしゃべったものだった。

仕事ぶりは駆け出しレベル

 唐十郎さんの状況劇場の芝居、市川猿之助さんの異端歌舞伎を全て味わいつつ、これに野坂昭如さんの原稿取りの、想像を絶する困難さに翻弄される快感が加わり、雑誌『海』の役に立つことのない編集者であり続けた。編集長にとって、極めて迷惑な存在だったに違いない。

 よく考えれば、編集者としての私は、始めから終わりまで、駆け出しレベルの仕事ぶりだった。私の思考と編集長の方針がかみ合わないため、それは当然の成り行きであった。

 その編集者を辞めて、独立するについては、これまた、さまざまな綾があるのだが……ここでは、「駆け出し編集者を辞めたあとは、駆け出し作家となった」という、大ざっぱなご報告に、とどめておきたいのであります。

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