木村 浩美

もの書きになりたいと願い続けて

書くなら随筆だと見極めていた

 子どものころから、いつか、もの書きになりたいと、漠然と考えていた。父親が若いころ、小説家志望の文学青年だったせいもあるだろう。

 そして私自身、認めてもらえるとしたら、文章を書くことしかないと思い込んでいた。

 自分には詩人の感性はなく、フィクションを構築する力もない。書くとしたら随筆だ、という見極めもついていた。

 当時、「エッセイ」という言葉は、日本ではまだ普及していなかった。「エッセイ」「エッセイスト」を広めたのは、もしかしたら私かもしれないと、うぬぼれている。

書けば書けるという不遅な自信

 私の人生に、そういう前置きの部分がありながら、なぜ却代半ばまで何も書かなかったのだろう。大学勤務や家事・育児に忙殺されていたせいも、確かにある。

 しかし、最大の原因は自分自身にあった。「書けば書ける」という不遜な自信はありながら、書かなければならない状態に、誰かが追い込んでくれるのを、結局は待っていたのではなかったか。

 出版社に持ち込んでも、名もない人間の書いた原稿を、誰が、まともに読み、評価してくれるだろう。たとえば、出版界にコネのある先輩に頼っても、迷惑をかけるだけなのだ。

 19世紀のイギリスの哲学者、カーライルでさえ、世に出るまでに相当苦労した。彼は切実な言葉を残している。

 「有名になるまでは誰もかまってくれない」。伺と矛盾をはらみ、かつ真実を突いているのだろうか。誰もかまってくれないのに、どうして有名になることができるのだろうか。

お年前の英国生活体験は希少価値

 私の場合は、どうだつたのだろうか。大学で英文学を専攻していたので、クラスメートの同人誌に参加し、研究論文を寄稿し続けていた。資料に基づく論文というよりは、今でいうエッセイに近い、自由な文章を載せていた。これが仲間うちでは好評だった。

 とかくするうち、夫のイギリス留学に家族が一緒に行ける機会がやってきた。私はこれを、もの書きになるチャンスととらえた。いくらうまい文章であっても、内容に魅力がなければ読んではいただけない。お年前、イギリスで家族一緒に暮らすことには、希少価値があった。日本にはまだ大英帝国のイメージが強く残っており、実情はあまり知られていなかった。実際に私たち自身が、行ってみてびっくりした。主婦として、生活者として、体験記を同人誌に寄稿した。

応援してくれる人に恵まれて

 夫のコネの、そのまたコネをたどるようにして、やっと出版にこぎつけた。「大宅壮一ノンフィクション賞」の選考委員の目にとめていただけたのも、つてがあったおかげである。

 「第8回大宅賞」を受賞して、やっと名を知られるようになった。それからはたくさん注文をいただけた。原則として依頼をお断りしたことは一度もない。

 もの書きとしての「私の駆け出し時代」を総括してみれば、次のようになる。

 私は文章を書くのが好きだった。もの書きになりたい気持ちが強かった。人生の途上、実際に手を染めたのは遅かったが、その願いを忘れることはなかった。

 恩師、先輩、夫、そして編集者など、遠く近く、応援してくれる人々に恵まれた。たとえば、初数年前、コピー機器事情は非常に悪かった。パソコンもなかった。風邪で起き上がれない私に代わって、コンビニで300枚の原稿のコピーをとってくれた夫。今はもういない。

 今、私はカルチャーセンターなどで、エッセイの講師をしている。エッセイ公募の選者もしている。参加者の年齢は比較的高い。過ごしてきた日々に、深い思いを込めてつづられている。

 私はエッセイという文章表現とかかわり続けてきて、本当に良かったと思う。

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