広瀬 光治

手作りで思いやりを伝える貴公子

いつもそばに毛糸があった

 昭和30年生まれの私にとって、毛糸はいつもそばにあるものだった。セーターをほどいて糸玉にする祖母の内職の手伝いをしたのは、小学生のころ。学校から帰って祖母と会話をしながらの糸巻きは、とても楽しかった。

 5年生になると家庭科が授業に加わる。運針から始まり、裁髄箱入れや刺しゅうのサンプラー作りへと、毎回の授業が待ち遠しく思えたほどだった。ある日、家庭科の南雲和子先生が、宿題の刺しゅうを褒めてくれた。「広瀬君、うまいわね。女の子より、ずっときれい。君は他の男の子とは、ちょっと違うけど、得意なことは、伸ばしていきなさい」。当時の私に大きな影響を与えたひと言だった。

 中学生になるとマフラーや手袋を編み、高校2年では修学旅行に持っていくためのセーターを編み、編み物は私の趣味であり特技となっていった。

 高校卒業後は、築地の水産会社に入社。昼食後は経理部の女性の先輩たちと編み物をする日々が続く。当時、船員さんの中には、長い航海中に編み物をする人もいたらしく、特に珍しい男に見られていたわけでもなかったような気がする。

『女子に限る』ではなかった

 会社の福利厚生としてクラブ活動があったが、私は「編み物クラブ」に所属し、趣味としての編み物を楽しんでいた。教えにきていた先生に何枚か作品を見ていただいたところ、専門的な勉強をすることを勧められる。この先生との出会いが、プロの道へつながるとは思いも寄らなかった。たまたま地下鉄で数駅先にあった「霞ケ丘技芸学院」に通い始めたのは四歳の春。仕事をしながら、何とか3年半で卒業できた。後に、当時の学院長から「本当はお断りしようと思っていたのよ。男性が編み物をするなんて考えられなかったし、男性用のトイレもなかったしねえl」と聞かされたとき、私は、ただ苦笑するだけだった。

 卒業と同時に、タイミング良く、編み物・手芸の出版社の求人広告を見つけて受験。もし応募条件に『女子に限る』とあれば、スタートラインにも立てなかったのだが、まさか男が応募してくるとは、会社側も思ってみなかったようだ。編集スタッフとして採用されて、本格的に編み物人生を歩むことになったのがお歳。全員女性編集者の中で本作りの基本を学べたことは、教えるという立場になった今でも大いに役に立っている。

 その後、教育部門への異動を希望し、編み物の先生と呼ばれるようになった。日本全国を講演で回る傍ら、平成5年、NHK「おしゃれ工房」に出演。その反響は大きく、いつの間にか「ニットの貴公子」のニックネームも付き、さまざまな番組の出演依頼もきた。大好きな編み物をたくさんの人たちに知ってもらいたい、手作りの大切さを伝えたい。そのためには、メディアに登場するのも自分の役目だと思い、数々の依頼をこなしていった。

思いやりや優しさを伝えたい

 編み物好きの器用な少年が、経理部員や編集者を経て、今では講師兼ニットデザイナーとなり、判年の編み物人生を歩んできた。そして今年3月まで約1年問、金沢幻世紀美術館で「ニットカフェ・イン・マイルーム」も開催できた。美術館で編み物の展示け最初は正直、戸惑いもあったが、糸一本から創り出すニットの可能性を、あらためて実感した素晴らしいイベントだった。このことは、私の大切な財産になったと感じている。また会期中には、金沢市内の小学校に伺って、授業として編み物を子どもに教えるというチャンスにも恵まれた。

 最近、子どもを虐待する親や親を傷つける子どものニュースが目立つ。こんな時代だからこそ、私には、手作りを通して伝えたいことがある。それは、思いやりや優しさを忘れないで、ということ。

 この、駆け出し時代からの思いを、私はニットの伝道師として、これからも伝え続けていきたいと思っている。

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