河合 敦

「人間万事塞翁が馬」を実感

日本史を教えるはずが養護学校へ

 私が作家になるきっかけは、職場に対する不満からでした。私は中学生のときに見た「金八先生」(TBSドラマ)にあこがれ、東京都の教員採用試験を受けました。希望したのは、高校日本史の教員です。ところが、運良く試験に合格したものの、配属されたのは普通高校ではなく、養護学校だったのです。

 当時は自分の希望する学種を選ぶことができず、特に新規採用者は希望者の少ないところへ因されるのが普通でした。私は何の知識もないまま、いきなり知的障害がある高校1年生日人のクラスの担任になりました。養護学校での3年間は、今でも自分の教師としての原点、だと思っています。ただ、授業で日本史を教えることはできませんでした。教師になって自分の専門を生徒に教えられないなんて、正直、考えてもみなかったので、「俺は何のために教師になったのだろう」と思い悩むこともしばしばでした。

雑誌への投稿が作家へのきっかけ

 そうした欲求不満を解消する気持ちもあったのでしょう。私は余暇に歴史研究に打ち込むようになり、先祖の歴史を調べて歴史雑誌『歴史と旅』(秋田書店)に投稿したところ、同誌の星野昌三副編集長から「君の文章は推理小説を読んでいるようで面白かった。うちの雑誌で原稿を書いてみないか」と誘っていただいたのです。正直、作家になろうとは思っていませんでしたが、せっかくの機会なので、二つ返事でお引き受けしました。

 星野副編集長からいただいた依頼は、榊原康政の生涯について、400字詰原稿用紙10枚でした。おそらく、この人物を知っている方は、よほど歴史通だと思います。康政は徳川家康の重臣で、晩年
は館林に領地を持ち、そこに墓所もありました。私は執筆にあたって東京からわざわざ群馬県館林市まで取材に出向き、康政に関する史料を探し、彼の史跡を巡りました。当然、いただく原稿料を大幅に超過しました。また、書いた文章を何度も大幅に書き直すなど、推敵に推設を重ね、秋田書店まで出向いて、直接、星野さんに手渡しました。こうして教師になって3年目の平成3年(1991年)秋、初めて書いた文章が、歴史雑誌に載りました。

 近くの書店で雑誌を手に取り、自分の文章が掲載されたページを開いたときの感動は、今でも鮮明に覚えています。

 以後、定期的に『歴史と旅』から原稿依頼が来るようになり、私は「自分には文筆家としての才能があり、すぐにでも作家として本が出せる」という思い上がった気持ちになりました。

 しかし、それは大きな勘違いで、書いた原稿を出版社に持ち込んでも、話を聞いてもらえるのは良いほうで、門前払いを食らうことさえありました。

人聞は簡単に夢をあきらめてはいけない

 そんな私を見かねて助けてくれたのは、やはり星野さんでした。歴史作家で多数の著作を持つ加来耕三先生を紹介していただいたのです。私は加来先生のご好意により、平成6年(1994年)に共著を出版させていただき、それからも何冊か一緒に書かせてもらいました。平成9年(1997年)、加来先生の監修ということで、日本実業出版社から本が出版されることなり、私が書き下ろすことに決まりました。ようやく脱稿したとき、加来先生から「今回は私の監修ではなく、あなたの著作として出版してかまわない」という、ありがたいお言葉をいただきました。こうして出版された処女作が『早わかり日本史』です。幸い同書はベストセラーになり、ようやく私は作家として一本立ちすることができたのです。雑誌に榊原康政が掲載されてから、6年の歳月が過ぎていました。現在、『早わかり日本史』の出版から日年が経ち、著書は70冊以上にのぼっています。

 「人間万事塞翁が馬」という諺がありますが、もし私が最初に普通高校に配属されていたら、おそらく作家として活動することはなかったでしょうし、長い不遇時代がなければ、高校の教師をしながらこれほど精力的に本を書こうという気持ちにならなかったと思います。そういった意味では、人間、簡単に悲観したり、夢をあきらめたりしてはいけないのだなと感じています。

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