湯川 久子

九州初の女性弁護士として

津身の控訴趣意書で減刑判決

 福岡市で弁護士を開業して五十二年になった。初めの頃は客もなく、刑事事件の国選弁護がありがたかった。私は先輩の分もいただいて一生懸命弁護した。

 高等裁判所の最初の国選弁護は、一審が死刑の強盗殺人事件。兄弟で大分の銀行を襲い、宿直の職員を殺害した。私は弟の国選弁護人に選ばれた。兄は長い勾留で「拘禁反応」に躍り、文通も面会もままならぬようだつた。

 私はうずたかく積まれた一審の記録を一週間かかって読み、彼らの老いた母親宛に手紙を書いた。折り返し美しい文字でしたためられた分厚い封書が届いた。母には素直だった幼い頃の息子たちのこと、小中学校時代の思い出の数々、涙しながら書いたであろう文面に、私も泣いた。そんな息子らが、なぜかくも酷いことをしてしまったのか。私は津身の力を込めて、初めての控訴趣意書を書いた。

 判決は、死刑が破棄され、兄・弟とも無期懲役だった。涙がこみあげた。弟は、深々と頭を下げたまま泣いていた。

傷ついた心身のケアも大切

 私が弁護士になった昭和三十二(一九五七)年四月一日に売春防止法施行、翌三一十三一年四月一日には同法罰則規定の施行で、巷から赤線街が消えた。

 その年、私は福岡家庭裁判所調停委員を拝命した。その頃の日本はまだ「男の浮気は甲斐性のうち」とばかり、妻の心情など全く無視され、妻は夫につき従うものと思われていた時代だった。表立って反発する女性も少なく、離婚の慰謝料も微々たるものであった。

 調停委員になってまもなく、夫が離婚調停を申し立てたケースを受け持った。

 愛人をつくり、ほとんど家に帰らない夫の留守中に、空間の淋しさから出入りの酒屋の男と、ただ一度過ちを犯した妻に対し、夫は自分の不貞を棚に上げ、さんざん妻を打ちすえて、無一文で家から追い出した。周囲の者も「女が浮気するとは何事」とこぞって妻を非難した。子どもも預金も夫に取り上げられた。無条件で離婚を迫る夫に、土下座して許しを乞う妻の、か細い白いうなじが目に焼き付いて離れず、新米で何も言えない己が歯捧かった。結局、子どもの親権は父親に、妻には僅かな金が支払われたのみだった。

 初めて受任した認知事件では、弁護士落第と落ち込んだ。

 「認知と養育料として月三千円払うように請求して欲しい」と言うので相手に連絡すると、飛んできて直ちに応諾した。早く話がついたので喜んでもらえると思ったら「調停に出して相手にも苦し
んでもらいたかった」とさんざん文句を言われたあげく、報酬を貰い損なった。私は法律だけでなく、当事者の傷ついた心身をケアすることも大切だと学んだ。

 熊本で弁護士をしていた父から法曹界に進むのを強く勧められ、九州初の女性弁護士と珍しがられでも、自信は持てず「弁護士は自分に向いていない、やめたい」とよく夫に愚痴った。夫は黙って聞いてくれた。

ストレス解消は「能楽の世界」

 弁護士になって、幸い早くから新聞や雑誌に書く機会が与えられた。私は、その時々の思いや事柄をエッセーやコラムに書いて、節目節目に本にしてきた。

 昨年はメディアファクトリーから「悩み、苦しみながら、より良き人生を探っている女性が、幸せになるための励みとなるような本をつくりたい。ぜひ書いて欲しい」という依頼を受けた。書き下ろしは大変だったが、『離婚の品格』と書かれた可愛い新書版の本になり、今年出版された。長年の経験が役に立ち、弁護士を続けてきて良かったと思う。

 趣味は裁判官から勧められて稽古を始めた「話」「仕舞」である。「舞囃子」や面や装束を着けて「能」を舞うようになり、次第に魅せられていった。仕事に押しつぶされそうになり、ストレスがたまってどうにもたまらなくなるとき、仕事を忘れさせてくれる「能楽の世界」は、私のこよなき安息所。今もほぼ週一回の稽古と、年に数回能舞台で謡ったり舞ったりしている。おかげで元気である。

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