田部井 淳子

ヒマラヤへの夢をお給料で実現

 高校の教師になりたいと思って入った大学だった。教育課程を終え、大学の付属高校で教育実習を終えた時「うまくやれそう」という手ごたえも感じた。が、いざ教員試験を受ける段階で急激にその心はしぼんでいった。「こんな私が人にものを教えることができるのか、大学を出たというだけで、なんの経験もない私が人に教えるという大それたことをしてはいけない」という正義感にも似た気持ちが、ものすごく大きくなり、とうとう私は教員試験を受けなかった。

 ある自動車会社の試験は合格していたが、「車についてなにも知らない私がここで働けるのか? 」という疑問がまたまたふくらみ、これも止めた。大学の就職課の片隅にあった求人ノートを何度もめくり、「これかなあ」とできそうと思ったのが「社団法人日本物理学会、編集部員募集」というものだった。あまり人と接しなくてもよさそうだし、地味そう。サービス業ではないというのが決め手だった。その頃この物理学会は東大の理学部の中の一室にあった。

 試験当日、三名の応募に九十七名がいて私はおじけやついた。物理の問題もあった。高校卒業以来触れたこともない物理。もうダメと思いつつも最後の小論文までは頑張ってみた。終了後「おつかれさま」と渡された袋の中になんと「五百円」のピン札が入っているではないか。山手線が二十円で乗れた時代の五百円はなんだかうれしかった。もう来ることもなかろうと思い、学生食堂で三十五円のラーメンを食べたことが今でもまざまざと思い出される。

 二日後、下宿先に「採用することになりました。いつから来れますか? 」という電話に驚き、少し舞い上がった。

 こんないきさつで私は日本物理学会、ジャーナル編集部員の一人として社会人のスタートを切ったのだが、実際にはたった二人しかいない編集部の一人というささやかなものであった。私は三歳年
上の先輩(偶然、大学も一緒)Kさんの机の横で指示された仕事をただこなすことに追われた。

 大学や各企業の研究所から投稿されてくる物理の欧文論文を受け付け、月一度聞かれる「編集委員会」(ほとんどが大学の物理学の教授で構成されていた)にリストを出してレフェリーを決め、相手に論文を送る。(その頃、論文一つ審査する代金が五百円だった)レフェリーから戻ってきたコメントを著者に手書き(カーボン紙使用)で連絡する。一度で合格するのもあれば何度もやりとりがあるのもあり、日中は著者からの問い合わせが結構ある。こうして合格した論文に図式の入る場所を確認し、図を専門のトレース屋さんに注文、月二百四十頁近い「ジャーナル」という物理の論文集を出すという仕事であった。毎日がときめく仕事のおもしろさをほとんど感じることなく過ぎていった。

 就職した四月に私ははじめて社会人の山岳会に入会した。それまで大学の友人と二、三人で秩父や谷川岳、八ヶ岳までの縦走はしていたが、山の雑誌で見る雪の山の美しさの魅力は大きく、なんとしても行ってみたいと思ったからだったが、入った山岳会は男ばかり。岩登りや氷壁を対象としている会であった。毎週水曜日の夜に聞かれる集会に行くと、いきなり「来週丹沢の沢登りにいく。新人は全員参加」といわれた。私ははじめてザイルをつけて登るということをした。これが刺激的だったのだ。両手両足をト。使って岩を挙じる緊張感にしびれ私は毎週山岳会の人の誘いに応じ、山に行く生活にのめりこんだ。平日は校正という単調な仕事だったが、五時にはパッと帰り、火・金は大学時代から始めた等曲のおけいこに通い、水曜日は山の会の集会に出、土曜日は山へ行くという生活。その頃の私の給料は二万円を切っていた。部屋代八千円を払えばあとは食費を切りつめ山の交通費とおけいこのお月謝に消えていく。が、より難しい岩場に登れるようになるといずれは八千メートルのヒマラヤへという夢がムクムクと胸の中に湧き上がっていった。その夢を実現させてくれるのは仕事で得る「お給料」であった。

 真面目さが認められ八カ月の休暇を得て一九七O年、私は女ばかりでアンナプルナⅢ峰へ行けた。これが海外の山への開幕だった。

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