金 美齢

フリーターはいつでも真剣勝負

 「究極のフリーター」を自称しているが、アルバイト人生の始まりは大学時代、親の反対を押し切って、台湾から早稲田大学へ留学したので、全ては自己責任。一九五九年四月、新入生勧誘のため、ESS(イングリッシュ・スピーキング・ソサエティー) の先輩が教室へやって来た。最大の殺し文句は「普通の学生アルバイト代は一日五百円、ESSのメンバーは八百円」。当時、家賃は畳一帖が千円だった。OLの月給は八千円。英語が少々できたら十日働けばOLの月給が稼げたのである。

 その頃、二年に一回、国際見本市が晴海で開催されていた。コンパニオンなどという酒落た言葉はまだ無かったが、通訳の募集があると聞いて、台湾の大使館に駆けつけた。ところが責任者は「もうすでに人数が揃い締め切りです」と言う。それでもせっかく来たのだからと数分つき合ってくれたのである。話しているうちに、前歴が「国際文化会館々長秘書」と知って「ピーター・ツァンの秘書なら」とその場で採用となった。経済産業省に当たる役所の高級官僚だったその方は、わがボスをよく知っていたのである。真面目に働くことがいかに大切か、身にしみて実感した一瞬である。しかも、一日二千円! それが以降のバイト料の基準となったのである。

 見本市の仕事はとても楽しかった。世界中から訪れるお客さんへの説明の合聞を縫って、各国のブlスのスタッフとの交流にも精一杯励んだ。河合だったか、楽器メーカーのブースは、デンとグランドピアノが据え付けられていて、イケメン(当時はそんな言葉は無かったが)のピアニストが時々演奏していた。後にその人とはデートする付き合いに発展した素敵な思い出もある。

 台湾のブースには六人の通訳がいた。日本生まれの二世の三人は日本語・中国語のパイ・リンガルだが、英語は弱い。台湾からの留学生は中国語が完壁、英語はまあまあ、日本語は片言が一人。英語も日本語も片言が一人。日・中・英三カ国語をあやつるのは、自分で言うのもなんだが、私だけだった。当然、多くの客を引き受ける破目になる。毎日毎日が目まぐるしく忙しかった。

 会期が終わりに近づいたある日、突然、目の前に高校のクラスメートの母上が立っていた。予期せぬ人の顔を見た瞬ほうだ問、何も言えず湧花と一波を流していた。親友の母親との出会いがそれほど衝撃的だった。それまで、楽しく生き生きと働いてはいたが、たまりにたまったストレスが一気に爆発したのだろう。自分自身、なぜあんなに泣いたのか不思議だった。

 台湾から一人で日本にやってきて、入学試験、授業、バイトの二カ月の問、毎日が緊張の連続だった。根がツッパリなので、普段は別に愚痴もこぼさず元気にこなしていたが、実はかなり参っていたのである。

 フリーターは正社員と違い、保証がない。一回一回の仕事で判断される。「ピンチ・ヒッターに採用されたら、ホームランは打てなくても、せめてヒットを出さなければ次はない」。亡き夫の名言である。通訳の仕事も一回一回が勝負である。気に入られたら、次また声がかかる。紹介もしてもらえる。「日本に行って通訳が必要だったら金さんがいるよ」とどれだけ口コミで宣伝してもらったことか。大使館の異なるセクションから同時に声がかかり調整に苦労したのを覚えている。両方とも「金美齢」とお偉いさんから指名があったのだ。そして、その先にあったのが翻訳の仕事であった。

 台湾を代表する広告会社の社長と出かけた訪問先、電通、博報堂から口がかかるようになったのである。翻訳は通訳と違い、後々まで残るので、更に丁寧な作業が必要なのだが、自宅でできるメリットがある。時間的にもやりくりしやすい。通訳から翻訳にウエートが移り、大学院時代は特別なケース以外の通訳は引き受けなかった。

 見本市の会場で大泣きに泣いたのも、今となっては懐かしい思い出である。その後一度も仕事が辛くて泣いたことはない。あれはホーム・シックだったのだ。あの時代からずっと「言葉」を武器に生きてきている。フリーターはいつでも真剣勝負なのだ。

  • 法人契約をご希望のお客さまはこちら
  • 個人購読ご希望のお客さまはこちら

1984 - 2017 Copyright © コミニケ出版 All Rights Reserved.

Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial