越川 禮子

無理なく、落ち穂を拾う

三十五歳までは 三人の子供の育児に追われた

 長女が中三、長男中一、次男小一となった頃、私はまだ三十五歳でした。結婚が敗戦の十九歳でしたから、物資不足の中、夢中で子育てに追われてましたが、末っ子が小学生になってふっとある空しさを感じたのです。「お医者さんの奥さん」、「威夫ちゃんのお母さん」と呼ばれても、一人の人間としての越川禮子の足跡がなにも無いのです。聖書研究会とか、PTAの役員などもしたのですが、これらはほんの趣味程度で、なんかもっと、世の中とか社会に役立つ、いきいきと生きている実感が欲しかったのです。経済的にも、精神的にも自立したいと思ったのです。そのためにはお金が必要ですが、子供たち三人は私立の学校に通っていたので、月謝は高く、とても母親の勉強するための費用は捻出できませんでした。毎日、新聞の就職欄を探しました。三十五歳の主婦、特技はなし、中等教員の家事科の免状をもっていたのですが、主婦と仕事の両立は無理でした。ある日一つ見つけたのがある保険会社のモニターというものでした。

保険会社のモニターになる

 昭和三十五年頃のモニターとはなんか知的で新鮮な言葉で、応募者は三十人近くありました。歯切れのよい支社長は若く、優秀そうで弁舌さわやかに説得され働くことになります。生まれて初めてのビジネスの“いろは”から学び(この方はその後万博のプロデューサーとして活躍します) ました。難しい保険のセールスでした。中小企業の社長、大会社の経理部長に、事業保険の必要性を説き加入させるものです。それでも五年間勤めたのです。気が付いたら三十人中残ったのは私一人でした。紹介で一度面接したあとは、殺風景な資料を分かりやすく図解なども入れて全部手書きでつくり直し、必ず手紙を丁寧に書いて添えました。“朝駆け夜討ち”の言葉を覚え実施したのもこのごろです。つねに確認作業を怠らず念には念を入れて顧客には誠実に接しました。セールスはビジネスマンなら必ず体験しなければならない業務だと思います。仕事の原点がここにあるからです。五年間の間優績で、毎年北海道をはじめ、各地を観光できたり、組合の評議員にもなり、「西ヨーロッパ福祉事情視察団」の一員として八カ国を視察見学(昭和四十一年)し、見聞を広めることができたのも、その後の仕事のうえに大いにプラスになったのでした。話題を広げるためよく本を読み、コピーライター養成所などにも通い若い人たちと講義を受けました。

小さな会社 インテリジェンス・サービスを立ち上げる

 競争の激しい世界ですので、大きな契約を男性のベテランに横取りされたり、妬まれたり、このままでは人間らしい心がスポイルされると危機を感じ、昭和四十一年にたった一人の株式会社インテリジェンス・サービスを立ち上げました。複数の男性先輩に助けてもらいました。市場調査の会社です。落ち穂姶いと称しました。落ち葉も本体も稲の質は同じである。男性のコンバインで刈り取る大農場に比し、落ちている稲穂を集め、良心的で無理をしない女性の会社にしようと決心したのでした。はじめからフレックスタイムでした。自分もそうであった家庭の主婦には、毎日九時から五時までというのは無理だから、週のうちこの日ならば専心できる日を決め、あるいは一日の午後三時間なら全力投球できる時間を決めて働いてもらったのです。損失を出さないように、自分の身の丈にあわせての企画でした。今年で四十三年になります。決して大きくしないのです。社長も三代目、私は社主です。

 亡夫は軍医でしたが、私が仕事をすることに反対はしませんでした。しかし条件をだされたのです。①仕事の愚痴を家庭にもちこまないこと。②子供たちの食事に気をつけること、の二つでした。この二つをクリアして業務の他、ヨガの研修でインドや、アメリカのヒープ研修のセミナーに参加したり、米国の老人問題のルポルタージュ「グレイパンサー」をU出版のノン・フィクション部門に応募、賞をもらったり、そして「江戸しぐさ」の伝承者故芝師に出会い師事し、やっと知られ始めた「江戸しぐさ」の普及というミッションをライフワークとして命あるかぎり続けて行きたいと思っています。

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