田崎 真也

「ありがとう」に感動

 今から三十一年前の一九七七年夏。当時十九歳で初めてフランスへ渡り、三ヶ月の間プルゴーニュやボルドーのブドウ畑を歩いて見て回った。

 僕に対する質問のなかで特に多いのは、今から三十年前の日本で、十代の青年がどうしてソムリエになろうと思ったのか?ということである。

 もちろん最初からソムリエになろうと思った訳ではない。十六歳の夏までは、将来、外航船に乗る船乗りになりたくて、航海士を養成する学校に通っていた。ところが、その夏のアルバイトで、その考えが大きく変わることとなった。

 そのバイト先は、夏しかオープンしない海辺のスナック。その店のマスターとして働くこと。どうしてそんなバイトをするようになったかは、ここでは触れないことにさせていただき、いずれにせよなんとかオープンさせた。アイスコーヒーを入れたり、簡単なカクテルを作ったり、スパゲッティやピラフなども用意したりといった仕事内容である。

 そしてオープン初日。すぐに最初の客がやってきた。女性客からの初オーダーは、スパゲッティのナポリタン(ケチャップで妙めるだけのもの)。全部食べてくれるか、ドキドキしながら見ていると、アッという聞にお皿は空っぽ、そして、お金を支払った彼女の口から、「ありがとう、ごちそうさま」との一言が。

 そう、この一言、が、僕の人生を大きく変えた。

 なぜならば、通常お金をいただいた側が、お礼の言葉として、支払い者に「ありがとう」と言うのにもかかわらず、この仕事は、支払ったお客様が「ありがとう」と言ってくれる。なんて素晴らしい仕事なんだ、と思った。

 だから、バイトが終わって、再び学校には戻ったものの、僕の頭の中には航海士の夢はすでに消え去っていた。学校を途中で退学、すぐに都内の割烹の料理見習いとして就職、その後、すぐにフレンチの料理見習いへ転向。しかし、やはり、長くは続かなかった。なぜなら、僕があのスナックで感動したのは、スパゲッティを作る作業に対してではなく、「ありがとう」と言われるその瞬間に感動できたと思うようになったからである。ならば、ホールサービスの仕事をと思い、フランス料理店のウェイターとして働くようになった。

 その店は、超高級店であり、ひとりの客単価が、当時の自分の月給(月額三~四万円) よりも高かった。にもかかわらず、やっぱり支払ったお客様が、帰り際に「ありがとう」と言って帰られる。日増しに、この仕事が天職であることの自覚がより強いものとなっていった。それと同時に、ならば日本一のサービスマンといわれるように頑張ろうという思いも強くなっていった。

 しかし、フランス料理について、勉強すればするほど解らない問題が出てくる。特に難しかったのが、ワインの勉強である。ワインに関する本も少なかったし、買って飲むには、未成年だし、一本の値段も高かった。お客様が飲み残したワインをグラスを洗いながら味をみたりもした。

 そんな時、目標にしていた先輩が、新婚旅行でフランスに行くということを耳にした。自分自身もフランスに行かなければ、あの先輩をこの先ずっと追い越すことが出来ないと思うようになり、その店を辞め、早朝から夜中まで三件の店を掛け持ちで仕事し、六ヶ月で百万円を貯め、フランスに渡った。

 三ヶ月で一度帰国。もう一度お金を貯め、再度渡仏。今度は二年八ヶ月ほど滞在し、ソムリエの学校にも通った。一九八〇年に戻り、八一年に国内のソムリエコンクールに初チャレンジ。予選は通過したが、決勝に進めず悔しい思いをし、八三年二十五歳でのコンクールで優勝。その後も世界コンクールへ何度もチャレンジし、三十七歳でようやく世界コンクールに優勝。

でも、今でも仕事の基本は、あのナポリタンを食べてくれた彼女の「ありがとう」の言葉。

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