藤村 薫

日本を楽にするのだと努力

 私は昭和三十四年、学業をおえて、父が創立した小さな貿易会社ジュピターコーポレーションに入社しました。現在の平成天皇が皇太子で美智子妃殿下と御成婚された年です。当時の日本は「もはや戦後ではない」と通商白書で声高らかに宣言されてからまもなくの頃で、日本全体が、戦後の焼け野原の復興から、先進諸国に追いつくべく新たな国造りへ進もうと期待と希望を持ち、努力していた頃です。

 当時の日本の貿易額は、現在とは貨幣価値、換算レートが異なりますが、輸出一兆二千億円、輸入一兆三千億円でした。日本全体がまだまだ貧乏でした。当然、固による外貨規制、制限があり、資源のない日本、どうしても輸出を増して外貨を獲得、輸入をしなければ、国が、国民が生きていけないという使命感がみなぎっており、一生懸命働きました。当時は国際電話、あるいは長距離電話をかけるのに、交換手に申し込んで約半日電話機の前で待たねばなりませんでした。また現在では慶弔に便利な電報が、当時全てカタカナでよく使われました。「金送れ、頼む」と打った電報を「金をくれた、飲む」と読み違えて、「誰にもらったか、飲むな」と打ち返した冗談がありました。

 当然、外国へは国際郵便が主力で、今と違って手動式の英文タイプライターでコトコト手紙を毎日毎日出すのが日課でした。コピー機もありませんでしたので、カーボン複写で、何枚も重ねて打ちました。小指は中指や人差し指と異なり、力が入りませんでしたので、出来上がった書類にむらがあり、苦労しました。文字盤の配列は現在と同じです。時が移り、環境が変化しても、昔から不変の良い物も沢山ある例の一つです。

 テレックスという機械が導入されまして、外国と交信が行われるようになりましたが、紙の細長いテープに穴を聞ける方式でしたので、よく間違えました。間違えると、訂正に時間がかかって、深夜まで作業をする事が多々ありました。しかし、便利な機械が出来たなと感心した事を覚えています。

 計算は全てそろばんか、暗算でした。合計が合わない事が多く、必ず二回、あるいは三回検算を行いましたので時間がかかりました。能率効率の点では、今の電卓、コンピューター、ファクス、コピー機の方がずっと優れており、昔日の感があります。また当時の法律も異なっておりました。土曜を含め毎日十二時間以上の勤務は当たり前でありました。残業代を頂いた記憶はありません。お前の能率が悪いから長く働かなけりゃならないのだとよく諭されました。ある土曜日の午後、たまたま明るいうちに仕事を終え、外に出ると、見慣れない異なった町に出たような錯覚に襲われた感じがして、また会社に戻った事がありました。

 私は昭和三十八年、生まれて初めて海外出張(米国)を命じられました。当時海外渡航も制限があり、航空券は別枠でしたが、期間を問わず許可された持ち出し外貨は五百ドルまで(当時の円価で十八万円)、宿泊のホテル代、食事にも節約、気を使いました。

 ロサンゼルスに着いて、高速道路(フリーウェイと呼びます) には本当にびっくりしました。片道四から五車線、流れるように車がひっきりなしに走る様子に、日本ももっともっと頑張らねば追いつけない、だけど狭い日本、同じやり方でなく、別の方法を取らねばとおぼろげながら感じました。

 現在の日本の貿易額は輸出六十五兆円を超え、輸入五十七兆円の大きな黒字で世界の経済大国です。振り返ってみますと、昭和一桁代を含めて団塊の世代までの我々は無我夢中で不平不満を漏らさず全員勤勉努力したと思います。「働く」とは「はたを楽」にするのだ、我々の日本を楽にするのだという気概があったと思います。

 我々の会社でも、道徳モラロジーを中心とした経営思想で経営を続けてきたお陰で一緒に働く仲間、社員、得意先、仕入先に恵まれ、そしてなんと言っても幸運に恵まれ、亀の這うように会社が少しずつ大きくなってきました。現在私の世代は、次の世代へバトンタッチ進行中です。良い運は常に徳を注入しないと、絶えるものだと教えられてきています。温故知新、次の世代に期待しております。

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