志高く、偉業を成した細菌学者 野口英世 (1876~1928年)

2014年4月9日(水)

 細菌学者として、数々の業績を残した野口英世。一方で借金生活や放蕩をしたことも伝わっています。

 福島県翁島村( 現在の猪苗代町) に一八七六年( 明治九年) に生まれています。父佐代助、母シカの長男として、貧しい農家に生まれ育っています。二歳のとき、いろりに落ちて左手にやけどをしました。このとき五本の指がくっついてしまい、家業の農業を長男として継げなくなりました。「自分の不注意でやけどさせてしまった」という母シカの自責の思いは、「何としても学問で身を立ててやらねば」の強い覚悟になり、シカは人一倍働き、英世を勉学に集中させたのです。野口英世の功績は、彼自身の努力だけでなく、少年時代の母シカの深い愛情が大きく影響を与えています。

 一八九ニ年、英世が十六歳のとき、会津若松の渡辺医師の手術を受け、左手で物を握れるようになっています。このとき医者のすばらしさを実感し、医者になろうと決心します。ただ左手は完全に自由になったわけではなく、生涯、左手を意識する気持ちは消えなかったと伝わっています。そんな英世も一八九六年、一八九七年と医術開業試験に合格、一八九八年、二十三歳のときには、北里柴三郎が所長をする「伝染病研究所」に入所し、細菌学の道に入ります。またこの年に清作から英世に改名しています。

 一九〇〇年になると、アメリカに渡り、毒蛇を研究、一九〇三年にはデンマークへ留学し、血清学を学び、翌年、英世が二十八歳のときに、アメリカに戻り、ロックフェラー研究所に入所( ロックフェラー医学研究所図書館の閲覧室には、ロックフェラー一世と野口英世の二体の胸像が現存)。そこで梅毒スピロヘータを研究、純粋培養にも成功し、その業績から世界中で有名になりました。京都帝大、東京帝大からそれぞれ医学博士、理学博士を得ました。この研究により、恩賜賞を授与され、十五年ぶりに日本へ帰っています。一九一八年に黄熱病原体レプトピラを発見( その後、黄熱はワイル病であり、ワイル病スピロヘータと同一と判定)、発表しています。以来、各地に黄熱病研究に赴きましたが、一九二七年( 昭和二年)、アフリカ、ガーナで黄熱病により死去、五十一歳でした。

 逸話も多く残っています。アメリカ、フィラデルフィア時代には、友人たちから借金をくり返し、「野口に金を貸すな」と、研究者仲間でたびたびかわされていたそうです。また野口英世の生活は、研究一辺倒と思われがちですが、俳句、短歌、墨跡、油絵と広い趣味を持っていました。こんな作品も残っています。

 「まて己 咲かで散りなば 何が梅」
 -野口英世よ 出世なくして 何が野口英世だ、おれは絶対成功してやる。東京修業時代の作-

 「夏の夜に 飛び散る流星 誰か之を追ふものぞ 君よ快活に 世を送り給え」
 -夏の夜空に飛び去る流星のように私から離れていったあなたを決して追いかけはしません、どうかあなた元気ですごしてください。東京修業時代の失恋の歌-

 また英世が二十三歳、清でペスト防疫に従事していたころ、毎夜城外の歓楽街に出没していたこともあったといいます。人間、野口英世の一面を知ることができます。業績も幅広く、毒蛇、狂犬病、小児マヒおよび痘療病原に関する研究など、発表論文は、百八十六遍を数えます。